ベトナムの和訳ニュースサイトで、こんな記事が掲載されていた。Mizは、少々驚きました。
一昔前のベトナムならば、「ベトナムの社会制度が悪い」なんて記事を書いた記者や出版社は、速攻で極刑になっていただろう。
ベトナム人の悪い習慣といえば◇人に頼る、◇怠ける、◇評判を気にかける、◇舶来物好き、◇宴会好き、◇自慢したがり、◇嘘をつく、◇ごみを捨てる、◇公共心に欠ける、などを誰もが挙げることができる。耳の痛い話だが、民度をもっと高くしたいと思うなら、この問題に正面から向き合わなければならない。19日付ベトナムネットが報じた。
どの民族といえども、はじめから民度が低かったり高かったりすることはあり得ない。社会制度が人に与える影響は非常に大きい。人は社会の主体でありながら、その社会から影響を受ける。望もうと望むまいと、社会制度に馴染まなければ存在が危うくなる。「郷に入れば郷に従え」だ。
文明国は、人々に自覚するよう呼び掛けると共に法律を使って制裁を科す。法律に違反した者は速やかに処罰される。しかし法律が間違って使われることもある。その場合、悪習こそが生きる手段となる。
バオカップ(配給制度)の時代、違法であっても食料確保のため集合住宅で豚を飼う必要があった。違法品の販売、監視員への賄賂、行列を無視しての奪い合いなど、もし秩序維持のために厳しく取り締まりが行われていたら、生き抜くことは難しかっただろう。
この推論に従えば、ベトナム人の悪習の多くは「社会制度の誤り」の結果、生じたものだといえる。誤った制度で運営されている社会に適応しているだけ、という訳だ。
こうした現状を変えるには、末端の変化から制度の変化に至る方法と、逆に制度を変更して末端に広げる方法の2つの道がある。どちらが現実的かといえば、まず制度や法律を変える方だろう。
我々にはバオカップ時代の前例がある。あの当時、国営デパートの販売員に熱心に礼儀正しい態度で接客するよう求めることは不可能だった。バオカップを終わらせ、自由経済に制度を変更し、競争とブランドを重視する時代になると、同じ販売員が客を笑顔で迎え親切に応対するようになった。こうしなければ顧客を維持することができないからだ。
制度の誤りはベトナム人が背負った大きな課題だが、これを直せば今の悪習も変わっていくだろう。小手先の手直しをするだけでは事態は改善しない。では正しい制度とは何か。私は「公平な競争経済」、「清廉な政治」、「厳格かつ明確な法律」だと考える。
(2013/03/23 VIET-JO記事より http://www.viet-jo.com/news/social/1/130320110755.html)
今まで、批判的な記事は検閲で削除されてきたベトナムですが、今後は変わっていくのかな。